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2011-02-13

国見からオシムまでの断層(前編)

前回の記事で”'80年代の日本サッカーのトップは高校サッカーであり、
世界的な変革(=体力とオールラウンドな能力)の姿は、国見に見られた”
とした。
では本来、日本のトップチームであるはずの日本代表はどうだったか?

年齢制限がなくフル代表が参加を目指していたソウルオリンピックは、
アジア予選で敗退。1988年から石井義信の後を受け、横山謙三が監督
となった。
当時を知る人の多くは”混迷の時代”と言うだろうが、今考えると
横山監督もサッカーの変化を取り入れようとした跡はある。
象徴的なのがウィングの選手をサイドバックにコンバートした事で、
浅岡朝泰、佐々木雅尚、平川弘などが次々とディフェンスラインへと
組み込まれていった。

つまりはイタリアワールドカップで(この大会で現れた唯一の進化)
と言われたウィングバック的なコンバートだったのだが、長年FWで
やっていた選手を使った事で守備に手が回らなくなった。肝心の攻撃面
にも貢献できたと言えず、(世界的にも斬新な起用)と皮肉る国内の
メディアさえいた。

時代を少し飛ぶが、加茂周監督が代表監督に就任した時は、”ゾーンプレス”
を標榜した。これも前線からのチェック、コンパクトなラインなど’80年代
の変化の基本となる事だったから、当然の事をやろうとしただけだったし、
メディアにはこう言いながら実際には前園、中田英寿といった中心選手を
起用する日産、フリューゲルス時代からの加茂さんのサッカーだった。

こう見ると横山監督、加茂監督ともに近代化したサッカーの変化を取り
入れようと苦心した様子がうかがえる。
けれども悲しいかな、実感としての理論も経験も無かった。
今と違って日本サッカー協会もお金が無かったから海外視察、遠征など
ほとんどいけない。海外からチームも呼べない。海外サッカーの映像も
今のように気軽に見る事はできなかった。
極東で生まれ育った監督たちが近代的なチームを作り上げる事など、結果
も踏まえ不可能だった、と言うしかない。
もちろん監督だけでなく、選手たちにもそうしたサッカーのイメージは
できなかっただろうし、実践する技術も体力も無かった。

オシムの最初のアプローチは、この近代的なサッカーを実行する礎となる
トレーニングを実行する事で、止まったボールを扱う技術に問題は無いと
見た上でそれを試合で生かす能力、判断力は向上させる必要があると考えた
のだろう。
さらに”走力”の重要性を説いたのは、それらを生かす絶対条件であるとともに、
最も短期間で上昇が見込める能力だからではないか?

ただ日本の最下層でボールを蹴っていたようなわたしなどが指摘するまでもなく、
横山監督や加茂監督は十分にその事は承知していたはずだ。
オシムに関して重要なのは、それを実感として知っていたという事でなく、
選手たちに実際に”やらせる(トレーニング)”ができた事にあると思う。

言うは易く行うは難し、というのはまさに至言に思える。


'80年代半ばからの日本代表の具体的な姿、変化は、
西部謙司氏の著作『サッカー日本代表システム進化論』
に詳しくあります。



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