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2011-02-19

国見からオシムまでの断層(後編)

1992年。もし日本代表最初の外国人監督がハンス・オフトではなく
イビチャ・オシムであったならば、どういったチームになっただろうか?

想像するに(メディアやファンが盛んに使うキャッチコピー的なものでは
なく)、”走る”行為をより全面に出したのではないか。

オシムがジェフでつくったチームと、南アフリカへの日本代表で
つくっていこうとしたチームは多分、まるで違う。選手の質が
違うからだ。
2002年以降の日本代表クラスの選手の質はアジアではトップレベルだし、
世界的に見ても大きく見劣りするわけではない。
テクニカルな選手が機動力を持つ。
成功すればかなり理想的なチームが、そこにはあったはずだ。

ただ1990年代初めの頃の日本の状況は、まるで違う。
選手の質がアジアで突出している訳では無かったし、アマチュアの選手たちが
予選敗退を繰り返し、自信も経験もまるで無かった。

イメージとしてはジェフ(市原)千葉の最初の頃だ。
Jリーグの中位前後に位置し、有名選手もほとんどいなかったジェフ。
オシムが最初にやらせたのはとにかく走力で圧倒。それにポジション
を捨ててでも攻撃に出る時はいく勇気。適切な判断力がつくまで
にはまだいくらか時間がかかったし、試合運びの面で頼りがいが持てる
ようになったのは(残念な事に)オシムが辞任したシーズンあたりから
だった。

もしかしたら90年代初頭の中心選手の顔ぶれは、いくらか違ったかも
しれない。
そしてラモスあたりの反発は、オフトの時の比ではなかったので
はないか?

(ラモスの運動量は、オシムの期待と一致したのではないか)

という意見もあるだろう。
ただサッカーに対する考えがまるで違う。
引退後にはオシムのサッカーに興味や共感を窺わせるような発言もあった
ラモスだが、現役時代はガチガチのブラジル、いや読売クラブの価値観。
それは(完全には重ならないのだが)ジーコにいくらか近い。

国見がフィジカルとユーティリティーな能力を合わせた組織力、という
近代的サッカーの光を灯し、日本代表にハンス・オフトがやって来て
おざなりにされていたサッカーの基本が徹底され始めた頃、日本国内の
トップであるJSL(日本サッカーリーグ)では、読売クラブ、日産自動車
という突出した選手が集まった二強が、タイトルを独占していた。
つまりは個人能力に優れた選手が集まれば勝利する、という
価値観が、そこにはあったのだ。

アジアの中で日本の選手たちがこうした地位を得るには、少なくとも2004年頃まで
を待たねばならなかった。そして世界的には未だ達する事ができていない。

ここを”自信”や”闘志”を持つ事で立ち向かえるとしたのがジーコで、
'90年代にまだ現役であったラモスは、この思想の塊だったと言えよう。

勇気や自信の必要性を説くのはオシムも同じだが、現実を見つめ適切に
対処する戦略に欠けたならば
それが蛮勇、空元気でしかないことは、
2006年のドイツでものの見事に証明されてしまった。
初の外国人監督就任から十四年もの歳月がこの気づきに必要だったか
どうかについては意見が分かれるところだろうが、高校サッカーで
全国の頂点を目指してシビアな闘いが繰り広げられていた光景を
思い出すと、それは長すぎる時間だったように思えてならない。

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